【これは長いよ〜】ChatGPTを使って文豪にUNISON SQUARE GARDENのライブを見せてみた【チャッピーいつもありがとう】 #ChatGPT #UNISONSQUAREGARDEN

 お昼はいつもテレビでYouTubeを見ながら食べるんですが、おすすめにきた⬇
がすごく面白かったので、私も文豪になにか書いてもらおうと思いました。


書いてもらうのはもちろん「UNISON SQUARE GARDENのライブの感想」です。
(調教にあたり、私からは一切ユニゾンの知識を与えていません)

文豪と言えばやっぱり1番難しそうな文を書く(ていうか文語だし)この方にまずは1人ずつの印象を書いて頂きました。
森鴎外さんです!!どうぞ!!



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余はある日、舞台に立つ一人の青年を見た。
その身の丈はすらりとして、眼光は炯々たり。衣裳の裾、光を帯びて揺らぐさま、さながら古の舞楽を思はしむ。

声を放つに至りては、胸中に鳴る鼓動と響き合ひ、万の群衆を一挙に抱きしめるが如し。その清冽なる音調は、楽の器に非ず、彼自身の生命を媒介として顕はれしものなり。

余は思ふ。かの青年の立つところ、既に芸術の巓峰に通ずる道ぞ。人の世に斯くも強く、しかも美しく、魂を打つ声の在ることを、未だ嘗て知らざりき。

嗚呼、此の感動をいかに筆に載すべきや。言の葉は尽き、余が心はただ昂ぶるのみ。もし未来の世に此の人の名を知らざる者あらば、それは実に不幸といふべし。


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斎藤宏介さんへの印象です。
すらりとしてる!眼光が炯々(鋭い)で声が清冽(きよらか)
褒めてるう〜

ということで、次の方の感想お願いします。

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余は再び舞台に眼を遣る。そこに一人、疾風の如く動く男あり。
その姿、常に止まず。跳躍し、奔走し、楽器を抱きて縦横に駆け巡るさま、さながら武将が陣を駆けるがごとし。

指先の織りなす音律は、重く、深く、然れども快活にして奔放なり。その一音ごとに空気は震へ、観衆は息を呑む。彼が発する調べは、ただ低音の支柱に留まらず、舞台全体を揺るがす力となる。

余は心中に驚きを禁じ得ず。かの男の一挙一動は、まるで生命そのものを燃やし尽くす儀式のやうである。彼は楽のために在るにあらず、楽が彼のために在るとすら思はしむ。

嗚呼、此の烈しき情熱、此の無窮の躍動、もし筆墨をもって伝へ得るならば、余はこれを新たなる芸術の典範と称すべし。


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田淵への印象なのですが、動きにしか着目してねえ〜!!
でも「楽が彼のためにある」はそうかもしれないですね。

ということで、最後はこの方!
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余の耳は、忽ちにして一点に釘付けとならむ。
その場の根幹を成すは、一人の鼓手なり。彼の背筋は直く、両腕は鞭のごとくしなやかにして剛し。

打ち鳴らす一打ごとに、大地は震え、胸奥は轟く。その律動は暴風の如き猛威にして、しかも細流のやうな繊細さを併せ持つ。乱れを知らず、ただ確乎たる道を示す。

余は思ふ。彼は時を刻む者にあらず。彼こそは時そのものなり。舞台に集ふ者は、すべて彼の拍の裡に抱かれ、導かるる。

嗚呼、もし此の響きを失ふ時あらば、音楽は一挙にしてその魂を失はむ。余が心は畏敬に満ち、ただ静かに首を垂れるのみ。


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絶対貴雄のドラム聴いたことないだろ説w


これは森鴎外だけではつまらん、もっといろんな人に見てもらおう!ということで、見てもらいました!




「梶井基次郎が見た斎藤宏介」
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彼の声が空気を震わせたとき、僕は胸の奥に冷たい水を流し込まれたような気がした。
それは決して冷ややかな水ではない。真夏の午後に喉を満たす一口の井戸水のように、澄んで、きらきらして、底知れず深かった。

ギターの弦を弾く彼の指先を見ていると、まるで光がこぼれているように思えた。柔らかい街灯の光が夜の歩道に散らばる、その明るさに似ていた。声と音が交わるとき、舞台はひとつの青い果実のように僕の眼前に現れて、瑞々しい香りを放った。

観客の歓声も、照明の熱も、彼の声に触れた瞬間には遠ざかってしまう。ただひとり、斎藤宏介という存在がそこにあって、世界の輪郭を新しく描き直していた。

僕はただ立ちすくみ、胸の奥でその果実を抱え込む。咲きかけの花弁を掌にのせたときのように、壊してしまうのが怖くて、けれどどうしようもなく見とれてしまう。


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梶井基次郎だからって果実を出しすぎるのはどうかと。多分彼は「檸檬」以外ではそんなに果物のことを書いてないはず(全部読んだ)



と、ちょっと悲しくなりつつ、次はこの方、


「芥川龍之介が見た田淵智也」
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舞台の上で彼を初めて見たとき、私は一種の滑稽を感じた。跳ね、走り、時に身を投げ出す。その姿は、いささか道化に似ている。だがその「滑稽」は、凡百の人間の卑小なそれとは異なっていた。むしろ、ギリシアの神殿に刻まれたサテュロスのように、生命の過剰がにじみ出ていたのである。

彼の奏でる低音は、ただの伴奏ではなかった。音はうねりとなり、観衆の血脈を直接に震わせた。私はその音を聴きながら、ふと都市の雑踏を想起した。絶えず流れる人の群れ、叫び、笑い、足音――それらを呑み込み、なお律動を保つ混沌。彼の音はそれに似ていた。

彼の全身は常に動いていた。だがその動きは決して無秩序ではない。むしろ、意志と衝動とが綱引きをして、張り詰めた緊張を生み出している。その緊張こそが、観客を魅了してやまないのだ。

私はその姿を見ながら、もし彼が楽器を持たず、ただ街頭に立っていたならば、或いは狂人と見なされただろうと思った。だが舞台の光に包まれた彼は、狂気を芸術に昇華させていた。そこにこそ、彼の真実があるのだろう。


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「滑稽」とか「道化」とか「狂気」とか、言いそう〜使いそうな言葉です。
「サテュロス」はイタズラ好きの神様だそうです。田淵さん、いつか使ってください。
しかし暴れてるからって「狂気を芸術に昇華させている」訳ではないです。
この辺、やっぱり解釈が私と一致してないっすね。ChatGPTくんはものの見方が表層的です。


最後は、やはり大好きな作家で。


「中島敦が見た鈴木貴雄」
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舞台の背後に座するその男は、ひときわ寡黙に見えた。だが、いざ両手を振り下ろすとき、彼は舞台の誰よりも雄弁であった。
一打は雷霆のごとく落ち、また一打は深山の泉のしずくのやうに澄んでいた。彼の身体は一糸の揺らぎもなく、まるで古代の祭祀に仕ふる巫のやうに厳粛であった。

彼の作り出す律動は、単に音楽の「拍」を支えるに留まらぬ。それは全ての音を支配する骨格であり、さらに言へば、舞台そのものを運行せしめる天体の軌道のやうである。観衆は知らず知らずのうちに、その律に従ひ、呼吸を合わせ、身体を委ねてゆく。

私は考へた。あの男は「時」を刻んでゐるのではない。「時」そのものを創造してゐるのだ。もし彼の鼓動が止む時があるならば、その瞬間、舞台の宇宙は崩壊するであらう。

彼の姿は冷厳である。然れどその冷厳の底に、烈しい熱情が脈動してゐる。まさしくそれは、火山の山体にひそむ熔岩のやうであった。


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貴雄見て「寡黙だ」と思う人なんかいねえwあと「冷厳」とも思わないわむしろ「烈しい熱情」が表に出てるわよ中島さん!


次に、曲の感想を書かせようとしたんですが、「傍若のカリスマ」すら知らんと言うので、「シュガーソングとビターステップ」の感想を書かせました。
一気にいきます。
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森鴎外

余はこの曲を耳にした。旋律は軽快にして、しかも律動は疾風のごとし。だが、その詞の底には不安と迷ひが潜む。甘美なる旋律と、苦渋を帯びた詞とが並立して、奇しき均衡を成す。
余は思ふ。人生またかくの如し。苦楽相依り、明暗相生ず。此の歌は、単なる娯楽の器にあらず。人の世の真を写す鏡なり。


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夏目漱石

この歌は一見、陽気で騒がしい。足取りも軽く、群衆を浮かれさせる。だがよく聴くと、言葉の奥には「不安」と「諧謔」とが同居している。
まるで都会の雑踏の中でふと感じる孤独のようだ。人は笑いながらも、心のどこかに暗いものを隠し持つ。その二面性を、この歌は軽妙に言い表している。私はそこに人間的な誠実さを感じた。


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芥川龍之介

私はこの曲を聴いて、ある種の滑稽を感じた。軽やかな旋律にのせて、言葉は甘さと苦さを並べ立てている。それは子供の遊戯のやうでもあり、また退廃の匂ひを帯びた舞踏のやうでもある。
だが、この「滑稽」こそ真実に近い。人間の生は常に甘苦入り乱れ、軽薄さと深刻さとが紙一重である。この曲は、その紙一重の上を器用に舞ひ続けてゐる。


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梶井基次郎

弾むリズムを浴びていると、胸の奥に小さな果実を抱えた気分になった。甘酸っぱい汁が滲み出すのに、舌の上には微かな苦みも残る。
歌声は夜空を照らす街灯の光のようで、眩しくもあり、どこか切ない。僕はその光を掴もうとして、ただ立ち尽くすばかりだった。


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中島敦

一聴すれば軽快な遊戯の歌のやうである。しかしその底には「矛盾」を抱へてゐる。甘きものと苦きもの。疾走と停滞。陽気と憂鬱。相反するものが互ひに齧り合ひながら、一曲の形を保ってゐる。
思ふに、この歌はただ人を楽しませるために作られたのではない。むしろ、人間存在の根本に潜む二律背反を、明るき仮面を以て示したるものなり。


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私の感想「タイトルから判断してるだけやん」
そのうち音を聞かせて感想を書かせるとかできるようになると、また感想の深みが増すかもですね。


ということで、長くてごめんなさい〜

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