「象は鼻が長い」の謎-日本語学者が100年戦う一大ミステリー #10


めちゃめちゃ懐かしい話が解説されていたので、ご紹介。
「象は鼻が長い」「僕はうなぎだ」は、長いこと国語学徒の間で論争されていました。
そして多分今も解決していません。

私は国語学を専攻したのですが、文法の細かいことよりも、日本語をコンピュータに理解させるにはどう考えたらいいかとかどういう風に分析したらいいか、というのを勉強していたので、論争の経緯についてはよく知りません。

ただ、「四大文法」の授業は取りました。個人的には「なんで時枝文法を紹介しないんだよ!」です(同じ時枝文法の流派?を学んだサンキュータツオさんもきっとこれには同意してくださるはず)。

今も学校文法(文節という考え方をする)ってやってるのかな?
そういえば昔子供に「いやこれは正しくない」とか文句を言いかながら教えた記憶が。

この動画に出てきた本は全部読んでます(学校で必要だったのではなくて、個人的に興味があって)

さて、「は」が係助詞であるというのは知っていましたし、「は」は主題の提示を表すというのも知っていました。、

ただ、上の動画では矛盾が。
「は」は主題の提示だから文を跨いでも効力がある、ということですが、動画の中でも例に出していた
「吾輩は猫である」で、おかしなことになってしまいます。

「吾輩は猫である。名前はまだない。(以下吾輩についての記述)」という文章において、吾輩について記述されているわけですが、間に「名前は」という句があるんです。
並列でなく次の文に「は」が出てきたら、主題は移るだろうと考えられるのが普通です。そう説明もされています。
しかし、この文章においては、3文目以降も「吾輩」についての記述なので、論理的にこのふたつの「は」の役割の見分けを提示することが出来ないのです。

多分そういうことで、論争は尽きないのでしょうね。

日本語では、主語がしばしば省略されます。まあ源氏物語なんて酷かったです!テストに「○○したのは誰か」とかいうのが出るくらい。
おそらくは、特に平安時代の小説は超内輪の人しか読まなかったので、より主語が省略されてたんでしょうね。
そうでなくても、ほぼ多民族から攻められたり共存する羽目になったりしていない日本人は、共通認識が多くて、主語を省略しても相手に理解してもらえる文化があったと思っています。
英語みたいにたくさんの人種、民族、地域の人が話すものだと、単語の使い方が広くなったり、主語は提示しないと理解して貰えなかったのではと思いました。


後半の、候補者が「わたくしが!」とやったら「威張るな」と言われた話が面白いですね。
何となくですけれど、
例えば
「斎藤はギターボーカル、田淵はベース、鈴木はドラムです」という言い方が成り立ちますよね。「は」を複数使って、並列になっていることを表しています。
それに比べ、「わたしが」というのは、唯一の「私」提示な語感があります。「私こそが!」みたいな。
それで「なに主人公ぶってるんだよ(市井のひとりなんだから)威張るな!」という印象を持つのかもしれません。

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