ファスト教養と「教養としての」とビジネスエリートと
ファスト教養について、以前たっちレディオでも話題になっていたし、本も読んだので、意識はしていたのですが、今朝、居島一平さんが話題にあげていたので、再び考えてみました。
まず、Amazonで「教養としての」という検索ワードを入れて検索するとこんなにでてきます!
まず謎。
「ビジネスエリート」ってどういう人のこと?
コトバンクによると、
一流企業の事務系の優秀な社員
マジで?
マジで?
うちに一流企業企業の事務系の優秀な社員がいるが、そんなこと思ったことないぞ?
というのはともかく、そんなビジネスエリートは教養を積んでないと行けないらしく?
でもビジネスエリートは忙しいから!いちいち本を読んでられない!
従って、上記のように「教養としての」本が沢山出ているんですね!
それにしても
教養としての紅茶
…読まないで飲みまくれ
教養としてのチャップリン
…チャップリンも草葉の陰で苦笑い
教養としてのワイン
…飲みまくれ(2回目)「機材車ラジオ」での斎藤さんの「(ワインとか言うとさ)あ、そっち行ったな」の感覚は正しいと個人的に思う
教養としてのラーメン
…食え
教養としての映画
…見ろ
教養としてのデニム
…履け…?
教養として学んでおきたい哲学
…1冊で済むなら苦労はしない
教養としての食べ方
…それは単なる作法では
ここまで見て、もしかして最近は編集者の方が「教養としての」をつけましょう!とか言ってるのかも、と思うようになりました。
前なら「○○入門」と書いていたものを、全部「教養としての」にして、これさえ読んどけばこのジャンルは済!みたいにしたのかな、と。
まあこれらの本を読んで例えば哲学について知った気になったとして、会話で話題に出して「それってニーチェ(例)のどの本にありましたっけ?」とか聞かれたらどうするつもりなんでしょうか?
教養はコレクションするものではなくて、その沼にはまってみるものだと思うのです。
だから、美術館に行かないのにアートを語ったり、能楽堂に行ったこともないのに能を語ったりして、「ファスト教養、コレクション済!」にするのは、却ってその人の浅さを語っちゃってる気がするのですが、どうでしょうか?